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しかみ像作成まで

この背景には何があったのでしょうか。

思わず調べちゃいました。

家康は今川領分割に際して、武田信玄と大井川を境に東の駿河を武田領、西の遠江を徳川領とする協定を結んで友好関係を結んでいた。しかし領土拡大の野望に燃える信玄は一方的に協定を破棄し永禄11年(1569年)、重臣の秋山信友に一軍を預けて信濃から遠江に侵攻させた。これは徳川勢の抵抗、並びに北条氏康の牽制により失敗したが、これを契機に武田信玄と徳川家康は敵対関係となった。

元亀3年(1572年)10月3日、武田信玄は遂に西上を開始し、まずは徳川領である遠江、三河に向けて侵攻を開始する。これに対して家康は盟友・織田信長に援軍を要請するが、織田軍も当時は浅井長政、朝倉義景、石山本願寺と抗争状態にあり、さらには美濃岩村城までを武田軍に攻撃され援軍を送ることができず、徳川勢は単独で武田勢と戦うこととなる。10月13日、2万2,000人の大軍を率いて伊那谷から遠江に侵攻してきた信玄本隊と戦うために、家康は天竜川を渡って目附にまで進出する。しかし信玄の巧妙な用兵、並びに兵力の差により大敗し、本多忠勝の奮戦により何とか浜松まで帰還した(一言坂の戦い)。

信玄本隊と同時に侵攻する武田軍別働隊が踏み荒らす三河方面への防備を固められないばかりか、この戦いを契機として武田・徳川の優劣は確定してしまう。そして12月19日には、浜松の北方を固める遠江の要衝であった二俣城が陥落する。そのような中でようやく織田方から援軍として佐久間信盛、平手汎秀率いる3,000人が送られてきた。12月20日、三河方面からの別働隊が合流した信玄の本隊は、天竜川の西岸を南下して浜松城下に近づいた。しかし長期戦を嫌う信玄は、浜松城を悠然と無視して、三河に侵攻するかの如く武田軍を転進させる。これに対して家康は信長の援将・佐久間信盛らが籠城戦を唱えるのに対して、断固として反対して武田軍を追撃。12月22日、徳川軍8,000人、織田軍3,000人で武田軍3万人に挑んだ(三方ヶ原の戦い。(現在の静岡県浜松市内))。だが、その結果、徳川方は鳥居忠広、成瀬正義をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、織田方でも平手汎秀といった援軍の将が討ち獲られるなど徳川・織田連合軍は大惨敗を喫した。夏目吉信に代表される身代わりを何人も置き去りにして、命からがら浜松城に逃げ帰った家康自身も馬上で脱糞した、とさえ言われている。このとき、浜松城まで追撃された家康は妙計「空城の計」によって、それを怪しんだ武田信玄に城内侵攻を躊躇わせ、撤収を決断させたとされている。なお、この時の家康の苦渋に満ちた表情を写した肖像画が残っており、自身の戒めのために描かせたと伝わる(しかみ像)。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年01月11日 10:04に投稿されたエントリーのページです。

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